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入閣直後に教育勅語 [アベラ国]

さっそくおいでなすった。柴山新文科相が教育勅語にも普遍性があり、道徳の時間に教えることは検討に値すると発言。

柴山文科相 教育勅語6.jpg

何にでも探せば「普遍性持つ部分」は見つかる。

なのに、なぜよりによって、国民を戦争に駆り立て、戦場に送り込む役目を果たし、多くの人々に命を失わしめたこの教育勅語にこうもこの政権の人々、この政党の人々、安倍の周辺の人々は、こだわるのか?要職に返り咲いた稲田朋美氏も同じ趣旨のこと(教育勅語には普遍性があり今に活かせる)をこれまで言ってきた。

国民は何を差し置いてもまず国に尽すべし、その義務がまずある(片山さつき)。国に命を差し出し(教育勅語)、「血を流して」国を守るべき(稲田朋美)というわけである。

となれば、柴山昌彦・新文部科学大臣が言う「アレンジ」というのはきっと「偽装」に違いない。この政権は、国民の権利は生まれながらに備わったものではなく、国への義務がまず求められるという考えだ。与党自民党の改憲案を読めばそれは明らかだし、片山さつき地方創生相など、人権天賦論を公然と否定して憚らない(=人権というのは人に生まれながら天から授かっているものではありませんよ、国への義務を果たして初めて手にすることのできるものですよ、と)。

柴山新文科相の言う、教育勅語を現代風に「アレンジをした形で」、すなわち「偽装した形で」学校の道徳の時間に使うというのは、国のために尽くすことが第一という考えを国民に植え付け、人権を抑制し、オリンピックのタダ働きにも動員、そして、「いったん緩急あれば」(教育勅語)(=いざ戦争となれば)国のために命を差し出してもらう、というのがその狙いである。

親孝行や夫婦仲良くといった徳(教育勅語の「普遍的な部分」と言われ、人はそのようなことを思い描くであろう)を学ぶのに、何もよりによって明治天皇の教育勅語、戦前の反省から国会決議で排除され失効した教育勅語、日本国民を洗脳し戦争に駆り立て戦争に動員した教育勅語から徳目を引いて来ることもない。ではなぜ、アベラはわざわざ教育勅語を使いたがる?それは、その「核」の部分(一旦緩急あればでんでん)を国民(=戦前の臣民ならぬ「晋民」)に刷り込みたいからである。


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