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今も続く核実験被害とICJ提訴 [核兵器]


トニー・デ・ブルム(マーシャル諸島共和国外相)演説
市民会議2日目 (2014/12/07)

 

アメリカの核実験場となり今なお被害に苦しむマーシャル諸島。

今年4月にICJ国際司法裁判所に核兵器保有国を提訴。

NPT核不拡散条約の6条にある軍縮義務を果たしていないという訴えだ。

この裁判はいろいろな意味で日本にとって人ごとではない。

 

南太平洋での核実験では日本の第五福竜丸が被曝した。

しかし実はほかに何百隻という日本の漁船が被曝していた。

今年は高知の高校の先生と広島の医師の調査により

かつての乗組員の歯の分析から被曝を証明している。

これらの被曝に関する日本政府の調査データも

アメリカの機密文書の公開で明らかになった。


日本の厚生省はデータは存在せずと長らくウソをついていた。

そこには、アメリカの核の傘に守られ、アメリカの推進した

原発(原子力の平和利用)のお先棒をかつぐ日本政府の姿がある。

国民をもあざむき、ひたすらアメリカに付いていく日本である。


補償を求めての裁判ではない、

< この狂気はいい加減終わりにしなくてはならない >

と世界の人々に訴えるための裁判だ、というその格調高い演説。

核被害に関する部分はそのまま日本の原発の状況にも当てはまる。

 

デ・ブルム外相はしみじみと語り、崇高で、実に感動的であった。

会場からは咳声すら上がらない。人々はじっとこの人の話に聞き入った。

この演説を、この人の存在を、マーシャル諸島の存在を、

是非とも多くの日本人、そして世界の人に知ってほしい。

稀に見る偉大な政治家だと思う。そんな人の歴史的な名演説であった。

 

Tony de Brum.png

 トニー・デ・ブルム外相(マーシャル諸島共和国)12/07/2014


TNDBLM201412.jpg


会場の皆さん、ここに来ることができて光栄です、うれしいです。皆さんにお話できることを本当にうれしく思います。太平洋の真っ只中にある小さな国の短いお話です。ここ数ヶ月の間に、たいへん注目を集めました。この国が値する以上の注目だという人もいます。そうかも知れません。


しかし私は核実験の詳細、その科学に関してここでは申しません。そして、この素晴らしい会議の様々の集まりで話し合われているいろいろな問題点についても話しません。というのも、これらの問題に関してはここにお集りの皆さんが恐らく世界でいちばん詳しい方々であると思うからです。しかし、皆さんに興味をもって頂けるかもしれないことを話そうとしてみます。マーシャル諸島とその核の遺産についてです。心から話します。マーシャル諸島の1人の男の視点で話します。家族がいて、孫が9人、ひ孫が4人という1人の男です。


私の話で皆さんが理解しやすくなればと思います。なぜ太平洋の小さな国が(人によっては取るに足らない国と言うでしょうが)手を上げ、立ち上がり、世界に向かって「もうたくさん!」と言うのか。私たちは、この核の狂気を天下に知らしめたいのです。


マーシャル諸島は1946年にアメリカによって原爆と水爆の実験場に選ばれました。それはマーシャル諸島が世界から遠く離れた所にあったからです。そしてマーシャル諸島が国連からアメリカに委任された太平洋諸島信託統治領だったからです。第2次世界大戦直後11の信託統治領が設置されますが、戦略的信託統治領とされたのは一カ所だけで、それが太平洋諸島信託統治領、そしてそのいちばん東がマーシャル諸島でした。その前は、国際連盟のもと日本の委任統治領でした。その前はドイツ、その前はスペインが領有、その前は宣教師や捕鯨の人たちが来ていました。


核実験が始まったのは第2次世界大戦が静かになった直後でした。しかし、軍隊のプレゼンスという雰囲気、戦う人々という雰囲気がマーシャル諸島にくまなく行き渡っていました。核実験場として利用することに関して了承をとるといった相談はマーシャル諸島の人々には一切ありませんでした。(マーシャル諸島のうち)ビキニ島の人たちには海軍司令官が接触しました。軍艦で上陸し、地元の指導者たちと話をします。そしてこう告げました。こういうこと(実験)をしたい。それは神の意思であるし、人類のためであるから、と。それが終わったあとはまたビキニ島にもどって、再び生活を続けることができます、と。1947年のことです。


今日、ビキニの人たちはまだ島に戻ることができません。他の土地に住んでいます。ふるさとに戻ることができないのです。


1947年にはビキニからわずか240キロほどのエニウェトク環礁も実験場に選ばれます。人々は立ち退き、今日、エニウェトクの一部には住民が帰還していますが、この島の他の地域への帰還はかないません。向こう24,000年にわたってです。


ビキニから東に220キロほどのロンゲラップ環礁は、特に1954年の「ブラボー実験」の影響を受け、移住となりますが、それは事後でした。被曝のあとです。帰還は長い間、かないませんでした。


私はマーシャル諸島の北部で育ちました。核兵器が爆発する音を時々聞きながらです。それは日常的に繰り返される当たり前の出来事でした。先にも述べましたが、戦争は終わったばかり。核実験のことを誰も脅威とは感じていませんでした。誰もそれが実際なんであるかを理解していなかったのです。誰も説明すらしてくれません。


1954年3月1日の朝、私は浜辺を歩いていました。祖父と一緒です。祖父は、朝早く海辺に集まる魚を穫ろうとしていました。村の人たちはよく投げ網で魚を捕っていました。私は籠を持っていました。籠の中にはすでに魚が入っています。それが私の仕事だったのです。獲物を運ぶ役です。


突然、西のほうが光りました。ものすごく明るくなったのです。まるでカメラの巨大なフラッシュを浴びたような感じでした。音はしません。ピカッと明るくなったのです。そしてその直後、空全体が真っ赤に染まりました。


そしてまずは強風、それからゴロゴロという音です。一つの爆発音ではありません。ゴロゴロという轟音が続くのです。それはまるで止まることを忘れた落雷のようでした。そしてそれはまるで誰かが巨大なガラスの器を島の上にかざして、血を注いだような感じでした。


60年以上も前に起きたことです。しかし、今でもこの話をするたびに、私は体にハワイの人たちが「鶏の肌」と呼ぶものができます。悪夢のような怖い出来事でした。私だけではありません。お父さんやおじいちゃんのために籠を運んでいた子供たちは皆同じ思いでした。あの日、あの浜辺では。


それが「ブラボー」の爆発です。ヒロシマの1千倍の威力です。これっきりではありません。全部で67回です。マーシャル諸島で1946年から1958年の間に行われました。


その威力は広島型の原爆の1.6倍ないし1.7倍の威力を持つ爆弾を毎日12年間爆発させ続けたのに匹敵します。


誰も肩を並べることのできない今日まで続くいちばんの苦しみは広島と長崎の人たちの苦しみです。戦時に投下された原爆だったのですから。マーシャル諸島は核兵器の実験場として使われました。しかしその影響は今日も続いています。拒否、そして情報の機密化。それも今日まで続いているのです。被害を受け続ける人々への適切な意味ある医療の拒否。それも今日まで続いています。


健康被害、ガンなどの病気、先天性の異常、jellyfish baby「クラゲの赤ちゃん」と呼ばれる先天異常…それらも今なお続いています。


マーシャル諸島の人々は1954年のブラボー実験まで訴えを起こすだけの勇気がありませんでした。北部の島々でアメリカがしていることが有害であるとは誰も考えていなかったのです。しかし、ブラボーのあとは、マーシャル諸島の指導者たちが国連に提訴します。しかし、これらの提訴はアメリカの国連大使ヘンリー・キャボット・ロッジが預かり、国連事務総長の同意のもと、国連の適切な機関、信託保護領理事会や安全保障理事会には提出しないことになります。それは、キャッスル計画、ブラボー計画のもろもろの核実験が終わってからのことということになるのです。


核実験の遺産は今日に至るまで続いています。それは実験のために人々の立ち退きが行われたからです。村を捨てたからです。場所によっては島全体が向こう数千年、居住不可能と宣言されているからです。そして、人々が世界に届くだけの大きな声を上げなかったからです。こんなことが起きた、世界の他の誰も同じ目に遭わせたくない。そのような声を届けられなかったのです。


ですから核兵器を保有する9カ国を裁判に訴えてこの狂気を止めさせるという機会が訪れたとき、マーシャル諸島の人々は、やろうじゃないか、ということになりました。やらないほうがいいと言った人ももちろん少なからずいました。滑稽だ、笑われる、というのです。人口わずか7万人の小さな国が世界でもっとも強大な国々を相手どって裁判だなんて。しかも、多くの人が大変大切にしていることに関して。


しかし、私たちに核兵器の直接的な被害を被るという経験があるからこそ、私たちはこの裁判を始めなくてはならないと思いました。そして私たちが幸運だったのは、反核運動の中の最も優れた人たちが相談に乗ってくれるという大きな幸運にも恵まれたことです。この裁判に関して私たちにいろんなことを教えてくれるのです。提訴は今年4月に行いました。


とても勝ち目はないという声も少なくありません。この会議でも < ダビデとゴリアテの戦いだ > という言い方をする人がいました。しかし、それ以上の、それをはるかに超えることです。これは小さいけれどもたいへん懸念している、一つの共同体の声なのです。それは、友人たちに、そして良き友人たちとは見なされていない人たちに、この狂気は終えなくてはならないと伝える声です。


マーシャル諸島の人で、核実験の時代の影響が一切ないという人はまずいません。たいていは少なくとも1つか2つは被害を受けています。家族の誰かが健康を害しています。先天性の異常があったり、移住させられたり、医療を受けられなかったり、帰還できずに自分も家族も生活が困ったりしています。先祖の魂が眠る島に帰れないのです。このような経験が基になって、この裁判はマーシャル諸島の国民が支持するものとなったのです。


私たちがこの提訴を行ったのは、宣伝のためでもなく、同情を集めるためでもなく、補償を求めるからでもありません。そういう言い方をよくされますが。提訴は、誰かがこれをしなくてはならないと心から思うからのことです。誰かが世界に思い出させなくてはなりません。この狂気は終えなくてはならないのだ、と。


フクシマ(の原発事故)が起きたとき、友人から電話が掛かって来ました。この問題で何十年と一緒にやってきた友人です。「トニー、これからどうなると思う?」と聞くので、こう答えました。「拒否、虚偽、機密」(deny, lie, classify) と(*)。否定とウソと機密化が起きる、と。まず起きたことを否定する。次に、起きたことに関してウソをつく。そして、もうこれ以上ウソがつけないところまでくると、国家機密として隠すのです。国の安全保障にとって重要な情報なので何人も入手してはならぬ、ということになるのです。その通りのことがフクシマで起きています。マーシャル諸島では1946年からずっと起きていることです。


私たちはこの問題を私たちの友人アメリカに知らせていましたが、私はその道を拒まれました。結局、ビキニとエニウェトクの人たちがアメリカの裁判制度のもと賠償を求めて提訴します。肉体的・物質的被害、資産、土地に対する被害の賠償を請求しての裁判です。その裁判は却下されました。訴えの中身によってではなく、手続き上の理由によりです。時間が経過している、証拠は裁判所で受理できるものではない、情報は信用できない、と言うのです。それらの情報の出所はアメリカ自身であったにもかかわらずです。


核実験が行われていたあいだに起きた最も害の甚だしいものの一つが人体実験です。今日では「4.1計画」として知られます。これを進めたのはアメリカの当時の原子力委員会の科学者たちです。放射能の人体への影響を調べるためです。私たちはこの計画の基となった論文を1994年に見つけましたが、1953年に作られたもので、この題名(「4.1計画」)がついていました。ブラボー実験が行われ、この研究が1954年3月10日ころに始まると、その題名は「放射能に偶然さらされた人間の研究」と変更されていました。「偶然」という言葉は、事後、挿入されたものです。


マーシャル諸島の人々の多くにとって「4.1計画」は、全できごとの中で最も害の甚だしいものです。「たまたま被曝した」人たちの研究というのですが、放射性の物質を注入し、人の体がどう反応するのかを調べ、それらの物質にさらされなかった人たちと比較する、ということも、この研究の中で行われていたのです。それが「4.1計画」です。

 

ブラボー実験のあと島々から立ち退かされた人々は、まだ帰還出来ない状態なのに、放射能で汚染された土地に、村々に、戻されました。それは、放射能が土地に残り、食物連鎖の中に入った状態で、研究を続けるためでした。


これはマーシャル諸島の人々がでっち上げた情報ではありません。1994年に公表されたアメリカの情報です。クリントン大統領によって行われました。マーシャル諸島の独立のためにアメリカと和解が成立してから8年もの歳月が経ったあとのことでした。和解とは1億5千万ドルという原子力信託基金の支払いに基づきアメリカに対する請求を停止することでした。


このような事情ではありますが、私たちが(今年)ICJ国際司法裁判所で始めた提訴は、補償・賠償を求めての裁判ではありません。マーシャル諸島で起きたことを認めさせ、その原状復帰を求めるといった裁判でもありません。この提訴はNPT核不拡散条約の6条に焦点を当てるものです。NPTの6条によれば、この条約に加盟している核兵器保有国は、早期に核軍縮の話し合いを始め、核軍縮の交渉を行わなければなりません。


少なからぬ人たちは、関係ないじゃないか、なぜマーシャル諸島がそんなことをするんだ、と言うでしょう。マーシャル諸島が提訴したのは、私たちがこの兵器が悪であることを知ったからです。私たちが辛い経験をしたからこそ、この提訴ができるし、それを進めるだけの権限があると思うのです。


ICJは世界最高の司法機関です。国連憲章に沿うものです。私たちは国連の加盟国であり、国連で1票を持っています。私たちがこの提訴をするのも意味をなすと思っています。それは、今日のマーシャル諸島の人々に対してだけ意味をなす、ということではありません。今日の世界に対してだけでもありません。宇宙全体に対してなのです。今日の、明日の、そして将来の。


私は冒頭で子供が3人、孫が9人、ひ孫が4人いると言いました。私は孫たちに会うたびに、そして孫たちがほかの子供達と遊ぶのを見るたびに、そして、話をしてほしいと学校に招かれるたびに、あるいは村の集り、あるいは初めての誕生日(ルアル)に招かれるたびに、子供達を見て、自問するのです。この子らに私たちはどんな世界を残そうとしているのか、と。


安全はあるのか、平和はあるのか、未来はあるのか? この兵器が支配する世界に? 


皆さんにはこの問いを投げかけるまでもなかったかも知れません。皆さんは、世界に核兵器の場所はないと信じるがゆえに、ここに集まったのですから。私がここにいるのも、そのことの証です。というのも、これらの兵器がマーシャル諸島に持ち込まれたのは、敵対する中でのことではありませんでした。戦争の一環ではありませんでした。ただ実験しただけです。しかしその影響は永久に残ります。影響は永久に残るのです。


すでに先天異常の話はしました。そのような話は皆さんの中にもすでにお聞き及びの人が少なくなかったでしょう。しかし、それは過去の話だと思っている人も少なくないはずです。しかし、これは世代を超えているのです。最初に被曝した人たちの2世、3世にも起きているのです。

 

ブラボー実験のあとも研究は続けられ、人々はロンゲラップ島、エニウェトク島に戻されました。まだ放射能汚染が激しく、人が住むには危険すぎると知っていながら、帰還させたのです。研究を続け、被曝する人を増やしていったのです。そうしてもともとの核実験で被爆した以上の人々を被曝させました。


ですから、この遺産は残ります。そして、マーシャル諸島の人々の心の傷、それは癒えぬまま、おそらく永久に続くでしょう。


この経験からただ一つ良いことが起きるとすれば、それは私たちがこのことを世界と分かち合い、世界が核廃絶を確信できるようお手伝いすることです。核兵器とともにある未来に安全はありません。


人間的なつながりもここにあることを私は指摘しておきたいです。これはたんに裁判の問題ではありません。たんに、世界を駆け巡って友人たちにこの裁判に加わってくれるよう説得し、ほかの友人たちにも核兵器を廃棄するよう説得してほしいとお願いするだけの問題ではないのです。核なき世界の概念にはすでに人間の顔があります。それは、戦時の原爆投下の被害だけでなく、核実験の被害に苦しみ続ける女性や子供たちの顔です。


核実験による被害の状況があまりにも激しくて村々にもう人は住めないというのなら、戦争で核兵器が使われたときはどうなのでしょう? もう何も残りません。それがマーシャル諸島の核のお話です。会場のすべての人にお願いします。どうか私といっしょになって、核兵器の一切ない世界を求めましょう。


ありがとうございました。


 

(拍手)

 

(中嶋寛訳)

 (*訳注:deny, lie, classifyと原文は韻を踏んでいるので、訳文も頭のkでなんとか揃える)」

 シリーズ「核兵器の人道上の影響に関する国際会議 ウィーン2014 再録」

 


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noraneko-kambei

のら猫も会員の日本平和学会の2014年春期大会(広島)でデブルム外相の演説を通訳するはずだったが、外相の来日が急遽とりやめとなった。代わりにこのウィ―ン演説が冒頭に紹介され、討論のたたき台となったのは光栄であった。
by noraneko-kambei (2015-07-23 11:06) 

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