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渡りゆく有明海に夕陽落ち さらば島原いざ熊本へ [人生]


おととい出島、きのう島原城、武家屋敷、きょう原城跡、口之津、島原港→ 有明海→ 最後は熊本城だった。



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熊本は空の青も木々の緑も濃い
本妙寺(熊本市)


依然として漱石


「神仏は尊し。されど神仏を頼まず」
宮本武蔵が霊厳洞に篭って『五輪書』を書き始めたのは
寛永20年 (1643年)。60歳のときだった。


白川の流れは絶えずして しかももとの水にあらず
なんの木か知らかは沿いにさまよえば


呉服町、細工町、古町、、
地震の爪痕の残る界隈


日本列島は400年周期で中央構造線沿いに地震連鎖が起きている。
1611年 慶長三陸沖地震 ←東日本大震災((((慶長に値))))
1617年 八代(熊本)大地震(八代城崩壊)←今ここ
1625年
 1月 広島で地震
 4月 愛媛で地震←((((危な伊予))))
 7月 熊本で大地震(再び熊本!すわ(((川内原発!)))
11月 四国中国大地震( !! )←((((伊方原発!))))



西岸寺(さいがんじ)の山門が消えている。地震か。

ここの寺には島原の乱(寛永14-5年/1637-8年) のとき天草四郎を討ち取った熊本藩士・陣佐左衛門の墓があったが、今はどこにあるか分からないという。

『阿部一族』で細川忠利に殉死を許されたうちのひとり、橋谷市蔵重次が切腹したのもこの西岸寺。橋谷は出雲の出で尼子の末裔で殿様の食事の毒味がその役目だったと鷗外は書いている。

芥川龍之介の『或敵打の話』に出てくる人違い夜討ちもこの寺の塀の前の出来事。この話は講談にもある。指南番の瀬沼兵衛(新陰流!)は殿様の前で田岡甚太夫と三番勝負をして負け、その甚太夫を夜討ちにしたつもりが人違いであった。逐電した兵衛の行く方を追うのが、殺された加納平太郎の嫡男、求馬(もとめ!)である。
石田三成に仕えた島左近は、実は関ヶ原の戦いで死んではいなかったという説がこの寺には伝えられるという。生き延びて鎌倉の光明寺で出家し、細川忠興に見出され、最後は忠利の命で熊本に入り、西岸寺の中興、泰岩和尚になったのだと。ならば柳生一族ともつながるのか。

芥川龍之介『或る仇打ちの話』
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/73_15158.html

ここだったのだ。阿部一族の屋敷跡。
今はRKK熊本放送。


森鴎外『阿部一族』
https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/673_23255.html

岫雲院(春日寺)
「鷹も殉死したのか」

熊本市観光政策課の看板に「安部」とあるが、正しくは阿部。

そして森号外ことのら猫寛兵衛が書こうとしているのが『安倍一族』である。

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旧細川刑部邸(細川刑部家は細川家三代忠利公の弟・細川刑部少輔興孝が興した)




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