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銀河鉄道の朝 ケンタウルスでなくアンタレス [人生]



優れた芸術作品というものは、人に様々な解釈を許す幅と深さと奥行きがある。賢治の作品のなかでも特にこの『銀河鉄道の夜』はそうだが、その世界を狭めることなく、さらに広げてくれた公演だった(ブレヒトの芝居小屋)。11月に故郷で時代を超えて観劇し感激した八千代座よりもさらに幾倍も小さな芝居小屋がひとつの大宇宙と化していた。 

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中学時代の同級生が今年亡くなった。Y君は天体が好きで天体望遠鏡を持っており、よく見させてくれた。のぞくと、肉眼では小さな点にしか見えない土星も、輪がみえた。夏の夜、私は、シリウスとかアンタレスとか、大きな星が好きだった。あんた誰だす、誰か知りうす、などなどその頃から私はダジャレでまぜっかえすことがもっぱらだった。

地学/生物は白髪の老教師、あだ名がスッタン。細身をいつも白衣に包んだスッタン先生は南十字星(日本からは見えないとされていた)が見えることを計算で証明。南西諸島のどこかの島のどこかの湾が隕石の落下跡であるという調査をされたりしていた。飄々として学者然、威厳があり授業中私語をする者など誰一人いなかった。先生が学食でうどんに生卵を落として食べておられるのを見たことがある。先生の昼飯はあれだけでいいのか、と驚いた。

この芝居のなかでサソリ座のサソリの話が出てくる。赤いひらひらスケスケの衣をまとい激しい動きのややエロチックな舞に身をくねらせたあと、気がつくと舞台を去っているが、サソリは毒で虫を殺して食べ、生きていくという話。ところがイタチに襲われ、必死に逃げる。しかし、ここは諦めてイタチに命を差し出すべきではないか、というのだ。イタチも生きていかなくてはいけないのだから、と。地上の生命の循環だ。

いつまで生きてるつもりなんだよ。麻生大臣はそう言った。文脈を変えればこれは深く鋭い問いでもある。なぜ人間だけ(特にその恵まれた者たち)が他の生き物の命を奪い続けていつまでも生きようとすることを許されるのか。でも、もうこのへんでよか、それはいつなのか。今年、アンタレスの友人は死んだ。スッタン先生もとおに亡くなられているはずだ。私は65となり、年金がもらえるようになった。昼飯はうどん一杯と生卵一個でいい。

鳥を獲る男は水銀の話をした。スクリーンには骨のゆがんだおおきな魚の絵柄。水俣病を刷り込んでいるなこの芝居(先月訪れたばかりの水俣)。アンタレスの字も映し出される。しかし、南十字星ときて、アンタレスと来て、サソリ、、そこで舞台の人々が声を合わせて歌う。それは沖縄の音階でできていた。私はその美しさにふいを突かれ、溢れ出る涙を押し留めることができなかった。


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