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もう1人の鶴見と連み [南北問題]

鶴見俊輔氏が亡くなり、偲ぶ記事などが出ているが先日

もう1人の鶴見氏を偲ぶ集まりがあった。

 

『バナナと日本人』岩波新書1982年)で知られる鶴見良行である。

 

ランディー・ダヴィッド・フィリピン大学名誉教授(社会学)は

彼の友人にして同僚。東南アジアの調査旅行に同行した。

このたび鶴見氏の残した資料等を収める「鶴見良行文庫」が立教大学に開設されたことを記念して講演。氏の業績や人となりを時にユーモアを交えながら暖かく語った。質疑ではミンダナオ和平の行方などに関し鋭い観察も。

 

鶴見良行 Randy David.jpg

 

講演より

バナナ。「ほとんどの日本人はバナナがどこでどうやって栽培されているかを知らない。ましてや農家がどんな生活しているかなど」まったく念頭にない。
鶴見氏が他に調査したマグロやなまこも同じ(『なまこの眼』)。
「彼の使命は、現代日本人の生活ぶりがいかに他国の名もなき村々の犠牲の上に成り立っているのかを伝えることにあった(学者の世界ではなく、一般の人々に)」という。
「日本人が生活のあり方を見直すきっかけになったらと」。

「戦後の豊かな日本人の生活が、いかにフィリピンやインドネシアといった開発の遅れた国々の貧しい労働者や農民の犠牲に支えられているか」、それを具体的な「産品を通じて、あるいはODAを通じて」「一般市民に訴えた」のが鶴見良行だったというのだ。

フィリピンで言えばミンダナオ島のバナナ、マグロ。インドネシアだとエビ、なまこ。そこに日本人の知らない「搾取、収奪、環境破壊」がある。それを知らせようと。

「土地の収容、強制移住、立ち退き、環境破壊」「土地を失った人々がプランテーションの労働者となる」。「米作などをやめ、多国籍企業の契約農家となってバナナを栽培するようになった」。「そこに加担している日本の消費者」。日本人も共犯というわけだ。

途上国では「開発侵略」と批判されていた。「日本による第2の侵略」「開発侵略」と。

(ここで通訳した私が思い出したのはODAではないが、日本の公的資金で建設されたルソン島
 アジア最大級のサンロケ・ダム。
 現地の人たちが作った反対運動のビデオで村の長老は言っていた。
「日本人は戦時中は銃でフィリピン人を殺した。今は金(かね)で殺している」
 私も現地で泊めてもらったことがある。アグノ川沿いのダルピリップ村。ダムの建設で田んぼや先祖の墓が埋まってしまわないかと心配していたが、先住民イバロイ族の人たちの生活は今どうなっているのだろう。日本人がかつて郵便局に預けていたお金がそのような問題のあるプロジェクトに使われていることをどれだけの人が知っているだろうか。フィリピンの議員がフィリピンの少なくとも3つの法律に違反しているダム建設だと言っていたのを思い出す=環境保護の法律、先住民保護の法律、地方自治法)(ODAといえば、つい先日もモザンビークの農民が日本に来て人権侵害を訴えたが日本政府はまともに相手にしなかった)。

『バナナと日本人』(1982)の鶴見氏が亡くなったのは1994年。私は会ったことはないが、
『エビと日本人』(1988)の村井吉敬氏なら面識があった。通訳の仕事をしたときなど
優しい言葉を頂いたものだが、その村井先生も2年前に亡くなられた。ともに60歳代だ。

ダヴィッド教授は鶴見氏の徹底した調査ぶり、一見関係のなさそうな文献まで読みあさる様を述懐した。人々を「単なる情報提供者と扱うのではなく、相方として接した」こと、「人に会うのが好きだった」ことなども。そして学生などへの面倒見の良さ、知識を「惜しげもなく分け与えた」姿。「今なお人々に慕われ続けているのも頷ける」と。

Randy David.jpg
(ランディ・ダヴィッド。解説者としてよくテレビに出演している)

「大酒飲みにしては鶴見、まともな字を書いた」

「私は綿密に計画をたてるたちだが、彼の現地調査の手法は行き当たりばったり。

 あるときシンガポールの空港でばったり出くわした。

 鶴見:どこ行くの? 付いてってもいい?

 こうして私に付いて来た鶴見はナマコに出会った。

 なるようになるさという出たとこ勝負で

 これだ!という題材に行き当たる鶴見だった」

 


質疑応答ではまず「マグロよりなぜバナナの研究に力を入れたか?」
答え:・・・農家は心を込めてバナナを栽培する。一生懸命世話をする。自分の子供以上。子供達はほったらかし。殺虫剤や農薬の害にさらされている。農薬散布にもさらされている。保護しない。子供達も、農民たちも。・・・そうやって何ヶ月も丹精込めて育てたものを、これからいよいよバナナが実をつけようという時に、切れと言われる。日本の企業関係者から。それで金も払うという。なぜなのかとミンダナオの農民が鶴見に詰め寄ったことがあった。
日本に帰って調べてみると・・価格維持のための操作だった。農民にしてみれば一生懸命育てたもの。それをいよいよ実をつける直前に切れ? そんなバナナ!? 
鶴見は人の「労働を殺している」と言っていた。労働の冒瀆。人の労働をないがしろにするのもいいところ。もうかればいい企業の論理。そういう部分への憤りが大きかったのでは。

質問:ロヒンギャがボートピープルとなってフィリピンにも影響があるが。
答え:・・日本だけではない。インドネシア、タイ、マレーシアなどASEAN諸国も受け入れようとしなかった。フィリピンはいらっしゃいという態度。受け入れた。貧しい我が国であるが、嬉しい。その影響でインドネシアもタイもマレーシアも政策を変更しつつある。1年限りだが受け入れると言い始めた。
フィリピンは貧しいながら1970年代はベトナム人を受け入れた。第2次世界大戦中はロシアのユダヤ人も受け入れた。フィリピンは難民には人道的に対応する国なのだ。・・・
アウンサンスーチーに対しては少しがっかりというのがフィリピン人。彼女のことはコリー・アキノになぞらえて支持した。しかし、ロヒンギャの問題では立場を明らかにしていない。まったくの沈黙を守っている。その点が残念だ。・・

質問:自分より貧しい人たちに援助として関わるのではなく、自他の関係を見直し、自己批判をして自分を変えていくということ。その大切さを鶴見さんから学んだ。しかし自分の行動を変えるのは難しい。学生たちに話しても行動に移すまでに至らない。それでも有効か?
ミンダナオのバンサモロ基本法、悲しい状況。マニラとミンダナオの関係。マニラの人たちにミンダナオを鏡として自分をとらえなおす、自省する可能性は?

答え:ミンダナオの問題は非常に難しい。歴史的な問題だから。スペイン統治時代、ミンダナオは別の国だった。スペイン人が来る前は政治制度としてはフィリピンの他の地域より進んだものがあった。333年間のスペイン統治時代もミンダナオは別の領土だった。1899年にアメリカ人がやって来たあとの50年近い統治でもミンダナオはモロ人の州として別枠だった。

しかし戦後1946年にアメリカがフィリピンの独立を認めたとき、ミンダナオを含め、列島すべてをフィリピン共和国としてしまった。ミンダナオの人々に何の相談もせず。ミンダナオのイスラム教徒はそんなつもりではなかった。それが今のすべての問題の起源だ。

フィリピン人は昔のことは憶えていない。スペイン時代のことも、アメリカ時代のことも。だから、ミンダナオは昔からずっとフィリピンの一部だったと思っている。だからミンダナオのモロ人が自分たちでは必ずしもフィリピン人と思っていないことが分からない。

自分自身、学生時代たいへんな衝撃を受けたことがある。フィリピン大学の学生だったころ同じ学寮になんとヌル・ミスアリ(後のモロ民族解放戦線の指導者)がいた。彼は私が人生で初めて出会ったモロ人だった。私はモロ人が怖かった。

私はミスアリからこう言われてショックだった。同じフィリピン大学の学生なのに「自分はモロ人だ。フィリピン人ではない」と言ったのだ。フィリイピン人にとって非常に理解しにくいことだった。

だからモロ人は自分たちには自治の権利があると考えている。だから私は(ミンダナオ自治に関する)バンサモロ基本法に関しては悲観的なのだ。フィリピン議会を通過するとは思わない。フィリピンの下院議員・上院議員の全員にたいへんな偏見がある。ミンダナオのイスラム教徒に対する差別はものすごい。この法律が成立するとは思わない。

私が恐れるのは、法案が否決されたまさにその瞬間にミンダナオの戦争が再び始まるかもしれないということ。

もう一つの質問は社会をいかに変えるかという問題。鶴見に戻ることになる。調査をし、本を書き、人に現実を知らせることで、人は生活のあり方を改めるようになるのか? 人に知識を与えることで、社会変革が可能と考えるのは現実的か?

大学に根をおろした学者なら調査をし論文を書き、出世し、それで終わり。論文は図書館に収まり、ほこりをかぶって誰も読まない。しかし彼の調査・研究はそうではなかった。学問的な業績とか、学者として出世するとかいったことには関心なかった人。そんなことに血まなこになっていたのではなく、一般向けに本を書いた。バナナ、まぐろ、マングローブ、なまこ。
その搾取のシステムに自分も加担しているということを分かってもらうために。

それで社会を変えることができるのか? 巨大なシステムを相手に戦うのは容易なことではない。
しかし自分の消費のあり方は改められるはず。日本の政治経済のシステム全体を敵に回して戦うのではなく、バナナの買い方から始められるはず。
1週間7本買っていたものを1本にするとか。
病院のお見舞いにバナナのお土産はやめるとか。
鶴見は私たちがなかなか理解できなかったことが早くから分かっていたと思う。
それは、社会を変えようと思ったら、市民ひとりひとりの意識を変えなくてはいけないということ。自分にも何かができると思わせなくてはならないということ。
社会を経済をいっきょに変えようという革命のようなことではなくて
1人1人の生活態度を改めて少しずつ社会全体のあり方を変えて行こうということ。

同じバナナの本を書いても私(ダヴィッド)のは500人読んでくれていればいいところだが
鶴見の場合は50万部。学校の教科書にも引用されている。

とダヴィッド教授、鶴見はある意味、社会変革に成功したと言えるのでは
とのことだったが、確かに問題に気づかせてはくれた。
一部の人たちは知識を身につけ、意識が変わり、変革を実践している。
しかし全体でどれだけの日本人が反省し、どれだけ生活のあり方を改めたというのだろう。
メガ消費は続き、多国籍企業の攻勢は留まるところを知らず、人も地球も悲鳴を上げている。
私は秋にネグロス島に行く予定。

追記:

私が幼年時代を過ごした九州南部ではバナナが育つ
そのままでは食べられずこたつに入れて熟れさせてから食べたが
あまり美味しいものではなかった
当時の貧しいなかでは高価な輸入もののバナナ
皮をむいて丸ごと食べるなどということはありえなかった
母が誕生日などにこさえてくれる餡蜜に
輪切りにしたものが二切れ三切れ入っていただろうか
口に入れると広がるそのエキゾチックな味!
君よ知るや南の国
遠い遠い見たこともない熱帯の国の様子はどんなだろう
と想像力をかきたてられたものだ
それにひきかえ
今のバナナは
つまらん

私は生まれ故郷から移り住んだ土地
遊び相手もおらず
自閉し
バナナの木の下で
柿の木の下で
日がな一日コマを回していた

コマ回し1957?.jpg



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