「世界平和の切要なるを感じた」(1921皇太子) [歴史]
『 「国防は軍人の占有物にあらず」加藤友三郎100年前の軍縮条約』の続き)
https://noraneko-kambei.blog.ss-blog.jp/2022-02-07

原敬は1886年から3年余り公使館書記官として
パリで暮らした。
原が法学校を放校となったあと
中江兆民の仏学塾で学んだことは前回書いたが
その後新聞に寄稿したり
フランス語の翻訳をしたりのあと
外務省入りしたのちの
30歳代初めのフランス滞在である。
政界に入ってのちの50代の初めには
半年もかけて突然の欧米周遊
1908年~1909年
太平洋を渡ってアメリカ
さらに大西洋を渡って欧州
ロシア経由で帰国
40年近く前岩倉使節団が
1年半以上もかけ欧米を巡ったころは
列強の植民地になってなるものかの日本も
いつしか朝鮮半島や中国大陸に触手を伸ばす国に、、
原はそれでも欧米諸国の国力は嫌というほど
見せつけられたことだろう
特に勃興するアメリカ
と戦争するなんて
考えられもしなかっただろう
しかし互いに建艦競争などして
いつしか仮想敵国になっているアメリカ、、
ハワイからグアム、フィリピンと
軍港を整備、軍事要塞を増強してくる
原が総理大臣(1918-1921)
となった日本は
国家予算の半分が軍事
海軍だけで3割になっていた
このまま日米
互いの猜疑心から軍拡は進み
やがては必然的に
軍事衝突?

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しかし1921年 アメリカからワシントン会議の呼びかけ――
アメリカと協調したい原にしてみれば
「待ってました!」
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
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フランス語の翻訳をしたりのあと
外務省入りしたのちの
30歳代初めのフランス滞在である。
政界に入ってのちの50代の初めには
半年もかけて突然の欧米周遊
1908年~1909年
太平洋を渡ってアメリカ
さらに大西洋を渡って欧州
ロシア経由で帰国
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1年半以上もかけ欧米を巡ったころは
列強の植民地になってなるものかの日本も
いつしか朝鮮半島や中国大陸に触手を伸ばす国に、、
原はそれでも欧米諸国の国力は嫌というほど
見せつけられたことだろう
特に勃興するアメリカ
と戦争するなんて
考えられもしなかっただろう
しかし互いに建艦競争などして
いつしか仮想敵国になっているアメリカ、、
ハワイからグアム、フィリピンと
軍港を整備、軍事要塞を増強してくる
原が総理大臣(1918-1921)
となった日本は
国家予算の半分が軍事
海軍だけで3割になっていた
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互いの猜疑心から軍拡は進み
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