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腎臓と尿管取り出す手術してわずか8日で病院を去り [日記]


●読者へのお礼と経過報告
●今後の治療
●これまでを振り返って
●医師・看護師・職員への感謝
●原因は?
●生活習慣の改善
●これからの運命やいかに

空と雲.jpg

腎臓と尿管の摘出手術は無事終わり
経過も良好で早々に退院しました(9月6日)

ブログでもフェイスブックでも
私事であるにもかかわらず
投稿を読んでくださった皆様に
励ましのクリックやお言葉をくださった皆様に
改めてお礼申し上げるとともにご報告申し上げます



退院前の膀胱の造影検査で
寝台に横たわろうとすると
技師の人が

「体重を全部私に預けてください」

と言って横になるときも
起き上がるときも
すべて抱きかかえるようにして
助けて下さった
なんとお優しい
と思ったら

「私も手術をしてるので
その痛みはよく分かるのです」

と言われた

きっとこの人は
毎日人を助けることが
人生の喜びになっているに違いない

看護師さんたちにしてもそうだ

 熱下がりましたよ
 管が全部取れましたね
 傷きれいですよ

我が事のように喜んでくださる

痛みもかなりおさまってきた
経過は良好と、退院することになった

全身麻酔で腎臓と尿管を摘出して
わずか9日目の退院だ



都バスとハチ公バスを乗り継いで帰宅

また聴くことができたハチ公バスの歌



ハチ公バスだワン!ワン!ワン!
けやき色づく渋谷の町を
走ってく~ 
どこま~でも~
いつま~でも~

(注*)

しかし、これからが勝負。
月末に検査の結果を知らされ
10月から週1回の通院
6週間の予定で膀胱癌の治療だ。

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膀胱に残る上皮内ガンに対する
BCG治療。
 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓

BCG治療というのは
弱毒性の牛の結核菌を膀胱内に注入するものだという。

小崎修道士もこの治療法を受けたら
 膀胱ガンが消えていた)

医師によるとBCG治療がなぜ効くのかは
よく分かっていない。
効く人もいれば効かない人もいる、
膀胱のガンに再発はつきもの、
場合によってはまた手術、
と言う。

私は友人の医師からもらった忠告に従って
「目の前の課題を一つ一つ淡々と解決して行く」
という姿勢で臨むだけだ。

今回の2回目の入院、医師からは
10日から2週間前後と言われていたので
その最短での退院は、経過が順調ということだ。
九州で医者をしている友人も
今はそんなに早く退院できるのか
と驚いていたが、
体を余計に傷つけない手術だった
(「侵襲が少ない」と言うのらしい)、
いかに腕のいい医師か
ということでもあるだろうとのことだった。
輸血をするかもしれないと説明を受けていたが
それもなかった。

最短でここまで来た幸運
医師らの決断・手配の速さに感謝

診断から入院・手術の手配も早かった

最初はつっけんどんに感じた虎ノ門の消化器内科
にしても泌尿器科へ行きなさいという指示(7月16日)は
今にして思えば正しかったわけだし
翌日インターネットで探し当てた渋谷のクリニックの先生も
検査(17日)結果の見立て(22日)はズボシだったし
(膀胱にガン、その上の尿管・腎臓にもおそらくガン)
日赤病院(広尾の医療センター)を私が希望すると
何よりその場で自ら電話をとって
予約をとって下さったのが大きかった。
(これが、もし紹介状だけ受け取って帰り
 自分で予約をとっていたら
 もっと遅れていたかもしれないのだ)

『体調不良いかんともしがたし』

日赤にしても初診(7月30日)で医師は
「今日午後空いてますか。内視鏡で見たい」
とおっしゃり、その日に膀胱の壁に赤黒い病変の部分を確認、
8月11日に入院、12日に手術、と決まった。
別れ際、
「頑張りましょう」
と言われ医師の気迫を感じた。

12日に手術。膀胱の病変部分の切除と
膀胱内のその他の数カ所と尿管の生検。
その結果を受け、もう1人の担当の医師が
「たまたま手術日程が空いている」という
28日に再度手術して尿管と腎臓を摘出、
と決まった。
急ぎましょう、ということだった。

『手術終え痛みと熱にうなされて朝の四時まで眠るあたわず』
 『シンゾーが辞めると言いし同じ日にジンゾー取りたる我が身なりけり』
 『ガスと浣腸と総裁選』 )

入院中、初診の時の医師が回診に見えたので
「先生の的確な判断と迅速な手配のおかげです」
と謝意を述べると
「私はヤブ医者ですよ」と謙遜を返された。

7月半ばから8月の末まで
信頼できる医師らに恵まれた幸運を
感謝せずにはいられない。

抜糸はせず??

退院の前日
気がついたら抜糸がまだなので
抜糸はしないのですか?
と聞いたら
しませんとのこと
自然と溶ける糸なのだそうだ
絆創膏も自然と落ちるものだという
シャワーで清潔に保ってください
ということだった



原因は?

入院中に指導を受けた栄養士にも話したが
自分としては体を壊したのは
不規則な生活と食事に原因があるように思える。

仕事からはほぼ撤退
毎日気ままに暮らし
食事の時間も一定しないし
食べてすぐ寝ることが多いし
加齢のせいで舌がにぶくなったか
塩気をあまり感じられず
毎朝食べるオムレツに大量の塩
昼食、夕食の味噌汁も濃くなっていたはず

しかし友人の医師によると:

「食事と今回の病気の関係はないと思う」

そういうものなのか?
友人はそれ以上何も言わないので
私としては「問題ない」と結論だけを言う
菅官房長官から答えをもらったような気分だが
いずれにせよ塩分の摂りすぎは半端ではなかったはず
そして食う量も
肉や野菜の炒め物も多かった
我が万能調味料の醤油麹をたっぷり使って

フクシマ?

6年前に福島の飯館村の帰還困難地域に2日通ったことがある
家屋の軒下では東京の1,000倍の放射能の値を示していた
しばらく動かしていないという
ホコリを被った機械を動かした石材工場でも
通訳の仕事だから口を閉じているわけにはいかないし
土ぼこり舞う畑を歩いたし
移動で乗せられた車の外を見ると除染作業中の人たちは
みな防護服に身を包んでいたが
私は何も着けていなかった
窓は空いて風がひゅうひゅう入ってきた

病院の医師にその話をすると
病気とその関連は考えにくいと言った
しかし欧州の原子力の専門家は
そういう場所には行くものではない
一粒でも吸い込んだら内部被曝だ
と言った
原発の設計や保守に関わった技師も
原発に反対する人がそういう場所に行くことが
自分は信じられないと言っている

遺伝?

母方のいとこは22人いるが(私は最も若いほう)、
乳癌と胃癌とリンパ腫が1人ずつ
叔父1人がやはり血液のガン(この叔父は戦争でも体をこわし
60台でなくなったが、ほかの5人の兄弟姉妹は長寿で
皆95~100歳まで生きた)
私の母は私を産んだあと卵巣ガン、子宮ガン、
最後は肝臓ガンで97歳で亡くなった

父方の親戚とは没交渉でよく知らないが
叔父といとこひとりが大腸ガンだったか

しかし今では国民の2人に1人がガンというから
もうあまり関係ないことなのかもしれない

病院食


病院食の写真をフェイスブックに投稿したら
「良い病院へ入院なさいましたね」などなど
意外に大きな反響を呼んだ。

「こちらの病院食は格別心がこもっています」
と栄養士の顔本(フェイスブック)友も絶賛。

確かにエスニック風のものなどもあり
単調にならないよう工夫してるようだった
(キーマカレーが出たが、すぐ食べたと見え、撮影を忘れている)

病院で個別指導してくれた若い栄養士さんも
生き生きとして素敵な方だった。

先に登場してもらった顔本友の徳岡弁護士は:
「負けた~」の一言。
ご自身の病院食と比してということだろう。

のら猫:負けるが勝ちかもしれません。
私は少食を目指そうと思います。
これまで食い過ぎていた。腹の脂肪がすごい。
内臓脂肪.jpg
手術後、腰回りが7センチ縮んでいます。

食べる量が多ければ摂取する塩分や化学物質(添加物や農薬)も多い。
「癌」という字にあるように
「品」を「山」のように食べて「病」になるのがガン
と何処かで読みました。

徳岡:食べようと思ったらたくさん食べられるんですか?

そしたら、食べられるうちにたくさん食べるのもいいですよ(笑)。

のら猫:枯れゆき縮みゆく自分は
腹八分で行こうと思います。
徳岡先生はいま脂の乗ったところで
バリバリ働くためにもスタミナが必要ですから
食べないといけないでしょうが。


これも予期せぬ反響だった。
私の作った粗末な食事なのだが。

豆ご飯の豆はすでに煮てあるものを購入、
煮物にしても「味の母」なる
みりんと酒の発酵調味料を使用。
いずれも自然食品店で入手、
全然、手がかかっていない。

有機農業の実践者でもあるフェイスブック友からは私向けに
料理本の推薦まで頂いた。
注文した本の到着が楽しみである。


因縁

前々回の投稿では長崎の小崎修道士との付合について書いたが
今回は熊本の歴史とこじつけて考えている

「良い病院ですね」

といえば戦前だが母方の大叔父が松山/和歌山の日赤病院の病院長/内科長をしていた

西南の役で官軍「賊軍」の別なく負傷者を助けた
細川藩の元藩医  は遠い親戚でもある**
(母の姉の嫁ぎ先がその医師の孫。そのユーモアに
 幼少時の私は多大な影響をうけた***)

日本赤十字社のサイトより:
「日赤発祥の地・熊本」〜敵味方の区別なく救護
https://www.kumamoto.jrc.or.jp/kumamoto/3534/

溶ける糸はひょっとして医療に応用という
生糸か? これも肥後の先祖が関係している
『君よ知るやシルク・サミット』 
https://noraneko-kambei.blog.ss-blog.jp/2016-08-29

私に貴重な助言をくれた九州の医師のお母さんは
確かご先祖が私の母方の先祖と戦国時代
肥後は長坂城の戦いというので
敵味方となって戦っていたようだし

いろんな因縁がからまっている
もうこれ以上からまらずに
糸もすんなりと溶けてほしいものである




注*:ハチ公バスの歌



駅の街のバス
やわらかな日差し浴びて
オレンジ色に光ってる
ぽんと乗ってちょっと降りれば
また見たことのない新しい世界に
出会えるよ~きっと~

ハチ公バスだワン!ワン!ワン!


キミとボクの夢を乗せて

みんな一緒に~駆け抜けよう


ハチ公バスだワン!ワン!ワン!

登りくだりの渋谷の町を

走ってく どこま~でも



ハチ公バスだワン!ワン!ワン!


キミとボクの出会った場所

思い出いっぱい あふれてる


ハチ公バスだワン!ワン!ワン!


けやき色づく渋谷の町を

走ってく どこま~でも

(前にも書いたかと思うがリフレインの最後は
 私はこう心の中で歌っている:

走ってく~ 
どこま~でも
いつま~でも

注**
Wikipediaには「佐賀藩主の飼鳩の負傷を治したので」鳩野を名乗ったとあるが
「佐賀」はたぶん間違い。
熊本の細川の殿様の鳩を治したから「そのほう鳩野と名乗れ」と言われた
と子供の頃から聞いていた。

こちら(コトバンク  )には(正しく)「熊本」とある。
「天和元年(1681)肥後熊本藩主がかっていた鳩の脚の傷を治療したことから鳩野姓を名のる」。

注***
子供の頃、遊びに行くと叔父さんはこう言った
「それはツマミだけんね。つまむだけばい。
 食べるとでけんとよ」
床の間の掛け軸に指差して「これ読みきるね?」
漢字ばかりが並んでいて
小学生の私には何のことかさっぱりわからなかったが
解説によるとそれはアルファベット26文字をあらわし
その一つ一つが全て「しも」に関係した漢字であった
Aは何だったか忘れたが
Bは「便」、Cは「屎」だったはずである

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ありがとうございました! m(_ _)m


最後にピアソラの曲を

粋で自由で激しくも切なく哀しいピアソラ



なぜピアソラかというと
このブログの前の記事のコメント欄に
どこのどなたかは存じませぬが
「御快癒促進祈願曲集」としていろんな曲や動画のurlを貼って下さった方がおられ
その中にピアソラのAve Maria があって
それがその中でいちばん良かったから



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