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修禅寺の伊豆半島を後にして海を突っ切ることにするが湾 [人生]

富士 駿河湾.jpg
修善寺からバスで1時間行くと伊豆半島の西岸、 土肥港に着く。
そこから駿河湾をフェリーで突っ切ること70分で清水だ。
きのうの修善寺、それから去年の久能山〜日本平〜清水の曇天の鬱憤を
一気に晴らす何とも清々しい空と海と富士山だった。


清水では前回訪れそこねていた清水の次郎長の船宿を「末廣」をまず訪れた。
あれ?去年小田原に行った時の再生可能エネルギーを活用したかまぼこ屋も同じ名前ではなかったか?

次郎長は
裸一貫
状況判断にすぐれ
先見の明があり
何人分もの人生を送った人物と思う

心酔した私は子分にしてもらおうと訪れたのだった

彼が生きていたら晋三のことを「
人間としてどうか」
と思うはずだ




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あっしを子分にしておくんなせえ

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あっしを子分にしておくんなせえ
のら猫の寛兵衛と申します
体は親分よりでかくとも
人間としてはずっと小せえんで
写真では小さく写りましたんでさあ



清水の次郎長と言えばヤクザの親分というイメージが強いが、それは彼の一面しか伝えていない。

幕末に船頭の家に生まれ、叔父の米屋の養子になるが、悪ガキで、
終いにゃ大金を持ち逃げして勘当されるが、飢饉で米に投機して大儲け。

しかし23歳の時に坊さんから25で死ぬ身だと言われたのがきっかけで、斬った張ったの渡世人生活、
任侠の世界に。いかさま賭博してるやつらと喧嘩になり、人も殺した。

養父がなくなると堅気になって清水に戻り、持ち前の向こうっ気の強さで
いつしか喧嘩の仲裁役で名を馳せる。ついにはお上から街道の警護を任された。

その後、戊辰戦争で幕臣側を助けたり、清水港の整備や開墾の社会事業、
日本初の英語塾を始めたりの側面もあり。



榎本武揚の咸臨丸が暴風を逃れて清水港に避難して来たのを官軍が追撃、
死体が湾に浮かんだのを誰も顧みないのを、人間死んだらみんな仏だ、
賊軍も官軍もねえってことよと引き上げ、弔った次郎長。

薩摩兵も新政府軍も同じと分け隔てせず手当てした肥後の医師(寛兵衛の遠い親戚)の事、
思い出したとです。

結婚式やってました。


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m(_ _)m

今回、旅の最後は静岡交響楽団の演奏会。
チャイコフスキーの6番の交響曲の第3楽章。
これがお目当てであった。
冬の鬱屈も今日の快晴とこの勇壮さと気持ちのたかぶりのうちい溶けて吹き飛ぶ思い
クライマックスのティンパニ〜とともに脳内麻薬ドーバミンの放出どーぱーっとおびただしく
全身が痺れる

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