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il frutto della guerra「戦争の果実」ローマ法皇が配布を指示した一枚の写真 [核兵器]


皇后もかつて言及していた。

『焼き場に立つ少年』と題し、死んだ弟を背負い、しっかりと直立姿勢をとって立つ、幼い少年。その姿が、今も目に残っています」

またまた
のら猫寛兵衛
アメリカはひどい
日本人はアホ
そういうブログ記事か
そうお思いなら違う

私はレイシストだ
全ての人種を憎む
全ての人種を等しく憎む
ゆえに全ての人種を等しく愛してもいる

だがアメリカ人は嫌いだ
日本を食い物にするアメリカ人が
特に
日本を愛すふりをして
日本を食い物にするアメリカ人が

しかしアメリカという国にも
ほかのどの国とも同じで
素晴らしい人はいる
特にアメリカには
優れた人がいる
人として優れた人が
国がひどいだけ
それが際立つ

この少年の写真自体、人の心を強くゆさぶる
しかし、この写真を撮った人の生涯
そこにまた
人の魂を激しく揺さぶるものがある
今こそこの人の話を喚び起さなくてはならない
と思う
そんな瀬戸際にまで我々はまたさしかかってしまった

この写真を撮ったのはアメリカ人だった

彼は終戦直後の日本で
写真を撮り原爆の破壊力を記録するのが任務の兵士だった
アメリカ海兵隊ジョー・オダネル軍曹


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原爆投下から1ヶ月あまりの1945年の9月下旬
佐世保から長崎市に入り爆心地に向かい
おそるべき破壊と殺戮の状況に衝撃を受ける

丘の上から眺めると
マスクをした男たちが何か作業をしていた
地面には穴が掘られ煙が上がっている
荷車には山積みにされた死体
それを次々と穴の中に入れ
死体を焼いていたのだ

すると10歳ほどの少年が歩いて来た
幼子を背負っている

少年は穴の近くで立ち尽くした
裸足だ

やがて男たちが近づき紐をといて背中の赤ん坊を受け取った
その時初めてそのアメリカ人ジョー・オダネルは知る
赤ん坊は死んでいたのだ

「まず幼い肉体が火に溶ける、ジューという音がしました。
それから、まばゆい程の炎が、さっと舞い立ちました。
真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を、赤く照らしました」
(朝日新聞創刊120周年記念写真展のインタビュー記事)

少年は唇を噛み締め、炎をじっと見つめていた。
少年の下唇に赤く血が滲んでいる。

「夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま、焼き場を去っていきました」

オダネル軍曹の任務は長崎の原爆被害の記録であり
市民の姿を映すことは禁じられていた。
しかし彼は、その命令に背く写真を密かに撮っていた。
この少年の写真もその一枚であった

瓦礫と化した長崎の街。その中で暮らす市民。
それら30枚の写真はトランクにしまわれ自宅の屋根裏に眠っていた。
家族は決して開けるなと告げられていた。

しかしアメリカに帰国して43年経った67才の時、オダネルは封印していたトランクを開く。

彼の死後見つかった録音テープに彼の思いを聞き取ることができる。

「アメリカはきのこ雲を見て戦争が終ったと思ったが、日本人にとっては50年の苦しみの始まりだった」

録音テープはNHKの記録映画「解かれた封印 ~米軍カメラマンが見たNAGASAKI」で紹介されている(http://www.dailymotion.com/video/xzghxa#.UYKKBxyILXp)。

その書き起こしをしてくれた人もいる(http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/c45f9793732aa7e8116d123f503b3dd9)。

オダネルは真珠湾攻撃に対する復讐心に燃え、19歳で海兵隊に志願していた。日本人への怒りがあった。「日本人を殺すために軍隊に入ったのだ」。

写真班に配属された彼が長崎で目にしたのは「新型爆弾」による恐るべき破壊の有様、1000人以上が死んだ工場、100人以上が死んだ学校。

「私は、灰と瓦礫につまづきながら、爆心地を見渡した。衝撃的だった。そこには、人が暮らした文明の跡形も無かった。自分が地球に立っているとは思えないほどの破壊だった」。

救護所で見た人々。髪の毛がない人、眉も鼻も耳もない顔。「あなたは敵兵だ。私を殺してくれ」と哀願され、逃げるようにその場を去る。部屋を出るとき「肉の塊にしか見えなかった彼の両目から、涙が流れていた」。

その夜、眠ることができなかったオダネル。
翌日救護所へ行くとその人の姿はもうなかった。
そこで1枚だけ撮った写真は、背中いっぱいに火傷を負い、生死の間をさまよっていた少年。
谷口稜嘩さんだ。

「この世のものとは思えないものを見た。それは本当に酷かった。死んだ人、子どもたち、その母親、間もなく死ぬ人、飢えている人、そして原爆症……」

撮影を続けるうち、日本人に対する憎しみが消えていったという。そして思った。

「なぜ人間が、同じ人間に、こんな恐ろしいことをしてしまったのか」

帰国後、苦しみ続けたオダネル。

「被爆者たちの体をうごめくウジ、助けを求める声、鼻をつく異臭。私は、長崎で見た悪夢のような光景を、思い出すまいとした。しかしその光景は頭から離れず、私を苛み続けた。あの時のアメリカの決断は、正しかったと言えるだろうか」

その思いにさいなまれ夜も寝ることができない。彼は写真をトランクに封印し、屋根裏部屋にしまい込んだ。

その後は家族思いの優しい父親。大統領付きのカメラマンにもなっている。原爆投下を決定し、< 原爆投下は戦争終結を早めた、多くの人の命を救った > と言う大統領だ。

そのトルーマンに直接質問をぶつけたこともある。原爆投下を後悔したことはありませんか?と。

トルーマンは動揺し、顔を真っ赤にしてこう言ったという。「当然それはある。しかし、原爆投下は、私の考えではない。私は前の大統領から、単に引き継いだだけだ」

この時期がまた微妙である。朝鮮戦争のころ。マッカーサーが「国連軍」を率いて、中国への原爆投下までやがて進言する。それでトルーマンから解任されたマッカーサーだが。

オダネルはその後、背骨に異変を感じ、皮膚ガンが見つかる。25回の手術。彼も長崎で被曝していたのだ。入市被曝。政府に補償を求めたが認められなかった。

1989年、修道院で反核運動の彫像に出会う。それは十字架に磔られたキリストの像。その全身に爆心地を彷徨う被爆者たちの写真が貼られていた。衝撃だった。彼は長崎の記憶がよみがえり、何かしなくてはという激しい思いにかられる。それはまさに神からの「啓示」だった。

こうして屋根裏部屋のトランクの封印を43年ぶりに解いたオダネル。ネガを現像し写真展を計画する。しかし、どこも受け入れてくれない。出版も35社に断られた。1995年の終戦50周年、スミソニアン博物館での写真展示も退役軍人の激しい反対で、中止。

自宅には嫌がらせの手紙が届く。「裏切り者」「アメリカが嫌なら日本に行け」。妻も離婚。これが「原爆投下は終戦を早め、多くの命を救った」が公式見解のアメリカだ。

彼に味方する投書もあった。「オダネルを批判する人たちに言いたい。まず図書館に行け。私がしたように。原爆とは何だったのか、何をしたのか、図書館に行って、歴史を勉強してから批判しろ」。それは後に父の活動を引き継ぐ息子タイグ・オダネルのものだった。

オダネルはあの焼き場で立ち尽くす少年のことがずっと気がかりだった。
「あの時、少年の肩を抱き、なにか励ましの言葉をかけてあげたかった」のだという。
10年間探したが少年の消息は分からずじまいである。

ジョー・オダネルはガンが全身に転移し2007年の夏に85才でなくなった。
その日は長崎に原爆が落とされた8月9日であった。

「確かに日本軍は、中国や朝鮮に対してひどいことをした。しかし、あの小さな子どもたちが、何をしたというのか」とオダネル。

「戦争に勝つために、彼らの母親を殺す必要があっただろうか。1945年、あの原爆は間違っていた。それは100年経ってもなお間違いである」

「絶対に間違っている。絶対に。歴史はくり返すと言うが、くり返してはいけない歴史もあるはずだ」

第二次朝鮮戦争前夜とも言われる今、我々はジョー・オダネルの言葉を肝に銘じるべきである。

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